このような、素朴なしぐさが、『手向け』の原点
だったのでしょうね。
今日で、阪神大震災から16年。
神戸の人たちにとっては、震災が、大きな心の節目になって、刻まれています。
昨日も、近所のお好み屋さんで、マスター夫婦や居合わせたお客さんたちと、
震災当時の話になりました。
みんな、今でも鮮明に覚えていて、ひとりひとりが語り部です。
節目といえば、震災後に建った我が家では、電化製品などが、次々と
故障し始めています。
使用年数を聞かれるたびに、「地震の後からです」と答えているのですが、
そんなお家、多いのではないでしょうか。
コメントをお書きください
ムクドリ (月曜日, 17 1月 2011 01:23)
小生、日曜の夜、テレビで『イ・サン』を見ている。
“この世にいられるのは、あと僅かの時間しかない”っていう場面に遭遇する、これって辛いよね。
「生」を貪欲には主張せず、
そっと、慎ましく生を営んでいた人間が、
もろく、儚く、消えてゆく・・・、
それって「無常」ってもの、感じる。
アホウーのワイでも「無常」らしいもん感じて、あついもん、滴る。
やっぱ、送るなら、「自分の思い」、「自分のこころ」、贈りたいし、つたえたい!
そない思わん?
スコッチ (火曜日, 18 1月 2011 11:48)
ブログご覧戴いてありがとうございますm(__)m
震災の思い出は、辛く悲しいでしょうね。
しんどい(関西弁の方が正しく響くので)毎日だったでしょうね。
今の有難みが思い出すたびあるでしょうね。
その分、今の日々を大切に生かされているのですね。
「手向け」、峠、そんな意味では50歳頃に訪れたような・・。
だんだんと荷物が重くなって・・・軽くしたくて、
”生きてる”から”生かされている”に変わった気がします。
「手向け」の心が宿ったのかもしれませんね^^
でも、お金や物を受け取るときもそんな仕草になります。
ただ、以前、お店でお金を投げてよこす人がたまにいて、
自分の格闘家本能に火が点きそうになるのを抑えるのに苦慮しました(笑)
人はそんな”しぐさ”で本性も伺えるようです^^;
素朴なしぐさ『手向け』、改めて大切な自己表現だと思いました。
ありがとうございますm(__)m
ムクドリ (土曜日, 22 1月 2011 22:36)
「祈り」ということばから空海さんのことばを思い出しました。 ちょっと、紹介させてください。 そのことばは次のことばです。
『一手、拍をなさず、片脚、歩むことあたわず、必ず彼比の至誠によって、すなわち感応をいたす。』(『高野雑筆集』)
これって、恋愛にも、商談にも通じることではないかって、思っています。一人ひとりのこころからの「祈り」が、どうぞ、通じますように。
夢子 こと 山下景子 (月曜日, 24 1月 2011 00:14)
ムクドリさま
ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。
思いが伝わったと思えるとき、一番うれしいですものね。
私も、思いを伝え、贈ることのできる幸せを感じています。
夢子 こと 山下景子 (月曜日, 24 1月 2011 00:25)
スコッチさま
たしかに、震災のことは、はっきりと覚えているのですが、
あのときのありがたさや、「生かされている」という気持ちを、
忘れているときがあります。
そのためにも、意識して思い出す日が必要なのでしょうね。
>でも、お金や物を受け取るときもそんな仕草になります。
本当にそうですね。
「受け取る」ことと「差し出す」ことは、
どちらかだけでは成り立たないことを思うと、
同じ意味合いがあるのでは
ないかという気がします。
それを行う人の心の持ち方次第で、
いやなものになってしまうのでしょうね。
夢子 こと 山下景子 (月曜日, 24 1月 2011 00:31)
ムクドリさま
>『一手、拍をなさず、片脚、歩むことあたわず、必ず彼比の至誠によって、すなわち感応をいたす。』(『高野雑筆集』)
すばらしい言葉を教えていただいて、ありがとうございます。
人生すべてに通じる言葉ですね。
本当に、祈りが通じますように……。